NO=NO NO=STOP それ以外の意味はない

「やめて!」

そういわれた瞬間に、ぱっ!!!両手を離す。

我が家の日常。

やめてと言われたら、やめる。
いやだと言われたら、やめる。

NOはNO。
それ以外の意味はないし、勝手に意味を変えるものじゃない。

特に相手の体に接触しているときは、やめる、離す。
小さなころから、子どもたちとの関りの中で徹底してきました。

ある年齢を過ぎたら、私のからだに触ってきた子どもたちに対してもNOを言ったし、
かなり強く「やめて」「やめる」と説明してきました。

私の体は、私のもの。
たとえ親子でも、勝手にされたら不快です。

子どもたちとくっつきながらのこちょこちょ遊び。
あははは~と笑っている間は、そのまんま。
押しあい、へいあい、そのまんま。

でも、「やめて」と聞こえた瞬間に、必ず手を離す。

今のやめては、やめてじゃない。とか、そういうことは一切なし。

やめて、やめる。
いやだは、やめる。

小さな繰り返しは、とても大切で。

大人と子ども関りの中で、
大人の立ち振る舞いはとても大事だと思ってる。

大人の姿を見て、まねて、学ぶから。

だから、喧嘩自体はとめないけれど、
こういうNGな行動は、瞬時に止めて「NO」を渡す。

これが結構難しくて、
えーいいじゃん!的な感じて通り過ぎてしまうことが、
やっぱりあるんです。

そういう時は、気が付いた時に、
ごめんと言って、やめる。

自分の人生の中で、
NOをYESにされたことも。
NOをYESにしたこともたくさんあるから。
NOがNOに聞こえない瞬間っていうのが、まだまだある。
私の人生の中で、NOがNOだった時間はそんなに多くない。

人と人との関り方は、
小さなころからの小さな小さな行動の積み重ねで、
形作られていく。

私の中で、
NOがYESとして生きてきた自分を、
NOはNOとして、アップデートして今があるだけ。

全部なくなるわけじゃないんだよね。

そして、
生活上の中で、子どものいやだを守れないこともある。

病院や医療行為、命を守る緊急性を伴うこと、
社会や家庭のルール、制限がかかる場所などで、
子どものNOにNOを出すことは
もちろんある。

いやだーって道に転がっている我が子を、
無理やり抱き上げて連れて帰るときだってある。

大人がこどものNOや嫌に逆らって行動を起こすときは、
自分の在り方が一段と問われる瞬間だと思っている。
自分がどんな在り方で、その人の前にあるのか。
対話が大きなパワーを持つ瞬間でもあるんじゃないかな。

日本では
当たり前のように行われる
くすぐり遊び的なものは、
自分の在り方をあぶり出してくれるものだと思うので。

その時の自分を観察してみるといいかもしれません。
子どもがやめて!やめてよ~と笑いながら言ってるときに、
あなたは、止められますか?

もっとやってやる!!という気持ちが引っ張り出された人は、
要チェックかもしれません。

子どものくすぐり遊びは、
大人の加虐心が引っ張り出される瞬間があるので。

行動を止める。
すごく大事なこと。

そして、友達同士でのかかわりの中では、
NOがNOにならないときが、当たり前のようにあります。

人との関りのルールは、
育ってきた環境によって、みんな違いがあるから。

その中で、
どうNOはNOとしていくのか。
NOをNOとしてとらえてくれない人と、どう向かい合っていくのか。

違うルールの人と、どう向き合っていくのか。
そのひとつひとつが、自分の心と体を守るとはどういうことか、
互いを尊重しあう関係を築いていく学びになっていくんだと思います。

個人的には、
NOはNOであることが当たり前になる、
そんな日常が当たり前にある日々を、心から願っています。